最初の一線


「……野先生、おーい」

 聞き覚えのある声に淀んでいた意識が現実へと引き寄せられる。
 一気に鮮明になる視界に一瞬、現状が飲み込めずたじろいだ。慌てて周囲に視線を巡らせ眼前の人物を見上げる。
 ――見覚えのあるリビングと、顔。
「新野先生? しっかりして。大丈夫?」
 尋ねる声と共に目の前でひらひらと彼の手が揺れる。
 反射的に疑問が口を突いて出た。
「……なんでうちに宇多先生が」
「あれ、記憶ないの? 新野先生」
 そう返す見慣れた同僚の顔は、なんというか呆れ気味といった表情だった。
『記憶ないの?』
 その言葉に少し前のことを思い出そうとしてみる。が、即座にそれは酷い頭痛に阻まれた。これでは思い出すどころではない。鈍く響く痛みに思わず顔を顰める。
「大丈夫?」
「あー……いや、うん、平気です」
 ちっとも平気ではなかったが咄嗟にそう答え、取り繕った。
 他人に必要以上に心配されるのは嫌いだ。
 けれどそんな俺の心中なんて知る由もなく、宇多先生は無理はしない方がいいよ、と声を掛けてくる。
 ――ほっときゃいいのに。そう思って、ああ、そういやこの人って面倒見良かったっけ、なんてどうでもいいことだけを思い出した。
 面倒なので言葉を返さずにいると、宇多先生が苦笑いを浮かべて俺の座っているソファーに同じように腰掛ける。距離は、少し空いていた。
 視線だけそちらに向けると、いきなり目の前にペットボトルを差し出される。少し驚いたが、そういえばさっきからずっと持っていたなと今更気付いた。
「水、飲んだ方がいいよ。覚えてないみたいだけど、飲み会で飲んで気分悪くなったんだから」
 宇多先生のその言葉でようやく薄ぼんやりと記憶が戻ってくる。
 ……ああ、そうだ。確か飲み会での一杯目からすぐに調子が悪くなって、二杯目で死ぬほど気持ち悪くなったんだったな、そういや。
 今まで何度も教員同士の飲み会には参加したが、あんな風になるのは初めてだった。最近は色々と忙しかったから疲れていたのかもしれないな、と他人事のように思う。まあ元々酒自体弱いのだが。
 そしてそこまで思い出したところで最初の疑問も解けた。要するに宇多先生が俺を送ってくれたということなのだろう。
 家を教えた記憶はないが教員名簿の住所を暗記してるとは思えないし、ということは自分は朦朧としながらもしっかり家までの道筋を説明した訳か。まるで迷子犬の帰巣本能のようでなんだか笑える。
「少しは思い出した?」
「ああ、はい……すいません、有難うございます」
 聞かれたことに頷いて、最低限の礼を述べながら差し出されたペットボトルを受け取り、中身を一口だけ含んで床に置く。
 そこで、隣からふ、と短いため息が聞こえた。
「それにしても、具合が悪かったなら無理して参加しちゃダメでしょう」
「いや、不調とか、その辺自分でも気付いてなかった」
「自覚なし?じゃあ尚悪い」
 ――いちいちもっともなことを言う。
 そう苦々しく感じたが、しかし正論なので言い返せない。ましてや送ってもらった身だ、そもそも言い返せる立場ではない。仕方なしにそれらをあー、はいはいと生返事だけ返して聞き流す。
 そんな俺の態度に宇多先生は、その呆れ顔をなんとも言えない表情へと崩した。
「……子供だなあ」
 ぽつり、と呟かれたフレーズ。その一言にかちんとくる。
 子供? 俺が?
 反射的に俺のどこが、と言い掛けたのをどうにか堪え、苛立ち紛れに視線を外す。と、横でまた宇多先生が苦笑したのがわかった。
 ……どうにもガキ扱いされてるようでイラっとくる。確かに世話にはなったが、だからと言ってたかが一つ違いの奴にガキ扱いされたくはない。向こうにそんなつもりはないかもしれないがそういう余裕ぶった態度は少々腹が立つ。なんだか優位に立たれた様で、漠然と、気に食わない。
「子供って、宇多先生とは一つしか違わねーし」
 結局、我慢するつもりが反論してしまった。
 ――これじゃあホントにガキじゃねーか。
 横を見やると案の定、宇多先生はどこか笑いを堪えたような表情を浮かべている。
 その顔にも、妙にムキになってしまっている自分にも苛々した。
 大体なんでこんな些細なことに苛立つんだ。頭痛のせいで気が立っているのか、それとも醒めたつもりの酔いがまだ残っているのか。
 そんなどうでもいい思考を遮るように宇多先生が口を開く。
「さてと……じゃあ俺はそろそろ帰るね。取り敢えず大丈夫そうだし」
「ああ、はい」
 不機嫌さを隠そうともせず短く答えると、また苦笑された。そういえばさっきからこの表情ばかりだな、と何となく思う。そしてその苦笑いの仕方も『はいはい、しょうがないね』とでも言いたげな雰囲気を纏っている気がして、やっぱり気に食わない。
 顔を背けて一応申し訳程度にもう一度、有難うございましたと素っ気なく告げる。
 宇多先生はそれに対していえいえ、どういたしましてと返しながら立ち上がり、
「寝る前にちゃんと戸締りして下さいよ? じゃあお大事に」
 そう言って、そして何故か俺の頭をぽんぽんと叩いた。まるで聞き分けのない子供にするような仕草。
 ……三十超えた男にするようなことじゃないだろ。
 そう思ったのは、衝動的に相手の腕を掴んで、思いっきり引き寄せた後だった。
 力任せに引かれた痛みか、それとも突然の出来事に対する驚きからか、うわっと短く苦痛混じりの声が上がる。が、そんなことは知ったこっちゃない。そのまま自分に向かって倒れてきた相手を強引にソファーへと押し倒し、組み伏せる。
「……あんたにガキ扱いされる謂れはねーよ」
 自分の下で当惑している宇多先生に口の端をつり上げてそう吐き捨てると、その顔が僅かに不快そうに歪んだ。愉快だ。もっと困ればいい。
「なんのつもり? 新野先生」
「別に。ただ無駄に年上面するヤツが困るのが見たいだけ」
 笑いながら答えると宇多先生の眉間の皺が深くなった。が、ほんの数秒でその表情はまた呆れ顔へと変わる。
「……なんでそう、やることが唐突なの」
「性格」
「ああ、そう……じゃあどうしようもないね。で、満足?」
「全然」
 実も蓋もない俺の言葉に宇多先生が閉口した。そしてなにかを考えるように視線を彷徨わせ、その後大きくわざとらしい溜息を吐く。
 そして一言、
「……ホント子供だね、新野先生」
 そう言って笑った。
 皮肉混じりの表情。
 それを見て、今度は腹が立つよりも先に別の思いが湧き上がる。
「そう言うあんたは随分余裕だな、状況解ってる?」
「? なに、どういう意味?」
 ――その問いを無視して、有無を言わせず宇多先生の喉元に唇を落とす。そしてそのままべろりと舐め上げた。なっ、という焦ったような声が聞こえたのと同時に組み伏せた身体が強張る。
 笑いを堪えながら首筋に沿うように舌を這わせ、その流れで行き着いた耳朶を噛む。耳に触れた瞬間宇多先生が僅かな反応を示したのが面白くて、からかおうと顔を上げると、そこにはなんとも愉快な宇多先生の表情があった。
「あー、なに、耳弱い?」
 揶揄するように問うと、軽く睨まれた。
「……新野先生、そういう趣味の人?」
 幾分余裕の失せた声音で問い返される。それに俺はにやりと口を歪めて、
「俺、酒飲むと体温下がる体質でさ」
 と、ちぐはぐな言葉を返した。
 その噛み合わない返答に宇多先生が顔を顰める。あー、こういう表情は中々いいな、そう思いつつ先を続けた。
「寒い。丁度いいからこのまま温めてよ――宇多ちゃん?」
「宇多ちゃん、ってなにそれ……というか新野先生そういう冗談は笑えなっ!?」
 まだ途中であろう抗議の声をその口ごと無理やり塞いで阻んだ。聞く気自体、はなからない。
 乱暴に口付けながら、抵抗は全て力ずくで抑え込む。
 頭の隅の方で、面倒だから同僚には手を出すまいって思ってたんだけどなー、なんてことが浮かんだが無視を決め込んだ。大体、ここまでしたら今更後には引けない。既に手遅れだ。
 考えたところでどうしようもないことを打ち消して、意識を自分の下に抑えつけた人間に集中させようとしたところで――予期しない痛みに襲われた。
 ――ああ、噛まれたのか。少し遅れてそう理解する。
「……容赦ねーな」
「加減した方だよ」
 にっ、と妙に不敵な笑顔で言われ、思わず笑ってしまった。そんな俺に、宇多先生は表情を崩さず更に続ける。
「今なら全部冗談ってことにしとくよ、新野先生」
 随分と有難い申し出だ。冗談じゃない。
「あー、それは残念だな」
 間髪入れず退く気がないことを告げると宇多先生は思いっきり苦笑して、そう、とだけ呟いた。
「あれ、諦めた?」
「……どうにも逃げられそうにないしね」
 嫌味で言ったのにさらっと返されてしまう。その様子があまりにあっさりとしていて拍子抜けした。
 ……楽でいいと思う反面、これではつまらない。
 そう少し思ったところで、再度宇多先生がにやっと笑った。そして思い出したかのように言葉を付け足す。
「……でも体調不良に酒入ってる状態で、ちゃんと勃つの? ――新野ちゃん?」
「――っ!」
 想定外のその切り返しに一瞬面食らう。気が付けば宇多先生の顔にはすっかり余裕が戻っていた。つまりまたあのムカつく表情だ。
「……上等」
 にやりと笑い返して、宇多先生のシャツをボタンを引き千切る勢いではだけさせながら、再び丁寧さの欠片もないキスを落とす。
 一方ではそういえば今何時だ?なんて脈絡のない疑問が降ってきたが、すぐにどうでもよくなった。どうせ明日は休日だ。
 そんなことより今は目の前の男の顔をどう歪ませるか、に集中したい。
 ――絶対、ぐちゃぐちゃに泣かせてやる。
 そう決めて、行為を進めた。


 ――今度は噛まれることもなかった。






ちゃん付けし始めたきっかけとか、手を出した経緯とかの補足的な。そんな感じ。
結果としては宇多ちゃんをぐちゃぐちゃに泣かせるのは無理だよ!
負けず嫌いで数回チャレンジするだろうけど、上手くいかないのでその目的はすぐ飽きて放棄。
でもまあ割り切った感じが都合がいいというか、面倒じゃなくて楽なんで関係自体はずるずると続いてるっていう。
どうしようもない関係だけど表面的な付き合いだけだったであろう頃よりは距離は縮まってる…のか?